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10月2日 [葉が闘った日々]

この2週間
葉が息を引き取るまでの日々を日を追って書いてきました。
書きながらまだ葉が助かる可能性を持ってるような気持ちになることがありました。

ここで一区切りをつけようかと思いましたが
あの日の私たちには、まだやらなければいけないことが残されていました。
葬儀です。
我が子の喪主になることなどそうそうないと思います。
家族を亡くした後の残された仕事。
我が家のケースを書き残しておきます。

2004年10月2日

病院で息を引き取ったあと
いくつかの書類が用意されました。
解剖についても打診されました。
「しません!」
dadaは即答でした。
私は「原因」は知りたいと思っていました。
あんなに元気だったのになぜ。
「どこを診ることになるのですか?」
「あたまです」
葉のかわいい顔を
チャームポイントのおでこを傷つけることはさすがにできませんでした。

葉の身支度を病院側におまかせし
朝8時頃
私の家族、病院の先生方看護師の方に見送られて
dadaの白ブーブで自宅に向かって出発しました。
先生方が玄関の外まで出て深く深く頭を下げて見送ってくださった姿が
今でも目に焼き付いています。

天気は快晴です。
高速道路から見える景色はきっと美しかったでしょう。
でもとにかく光が当たらないように!
あたたまらないように!
両手を組んで眠っている葉を必死で守るようにして後部座席に座っていました。
7〜8時間のドライブ。
普通なら非常に長く感じる時間があっという間でした。

13時40分
自宅到着です。

近所のママたちが待っていてくれました。
その顔を見たとたん不覚にも私は地べたにへたり込んでしまいました。

家に入り急いで葉が休める場所を用意します。
快晴で比較的暖かいといっても10月です。
それでも部屋を冷房でガンガンに冷やしました。
設定は24度。

上の妹が飛行機で追いかけてきてくれました。
彼女は葉が倒れたのは自分のせいだと思いこんでいました。
風邪を引いている娘を連れて実家に行ったからだと。
そうではないと説明しましたが
責任を感じているのか真っ先に飛んできてくれました。

近所からはコーヒーやお菓子、お茶など
様々なものが差し入れとして持ち込まれます。
「自分が逆の立場だったらこんなに気が利くだろうか」
考えさせられました。
ありがたいと思いました。

さて、ここでいきなりつまずきました。
葬儀の用意。
どうしたらいいのかわかりません。
dadaは近くで見かけた斎場をのぞきに行きますが
どうもあまり思わしくない様子。
ちょうど私は葉が亡くなったことを取りあえず仕事関係者に報告していました。
そのとき、ある会社の社長がうちの近所に知り合いがいることを思い出し
一件の葬儀屋さんを紹介してくれました。
その時初めて斎場の決定が先ではなく
葬儀屋さんを決めてからすべての細かいことをお任せするものなのだと知りました。

夕方遅くになって担当者が打合せに来てくれました。
千葉さんという男性です。
小さい子は宗教をもたないので
最近は無宗教でやることが多いとのこと。
またお墓をもっていない場合も
無宗教で葬儀をしておけば
あとで宗派でもめることがなく安心なのだそうです。
私たち夫婦は迷わずそうしてもらうことにしました。
(後で私の父が反対して大変もめることになるのですが....)
また、小さい子の場合
別れをもつ時間が少しでもあった方がいいということで
お通夜までを1日あけることが多いというアドバイスも受けました。
それも従うことにしました。

想う会(通夜にあたります)は4日。
お別れ会(告別式にあたります)は5日。
どこの斎場にするか。
どのくらいの人数が集まるのか。
さっぱり見当もつきませんがなんとか式場だけは押さえました。

ひととおり軽い打合せの後
膨大なドライアイスが持ち込まれました。
大好きなトイストーリーのバズのオムツに履き替えます。
病院のガウンを着てきた葉を
ばあやんが縫ってくれたお着物に着せ替えました。

今年の正月にはちょうどだった丈。
それが短すぎることにすぐ気がつきました。
妹と一緒に上げてあった仕付けをすべてほどきます。
「10ヶ月でこんなに大きくなっていたんだ!」
あらためてポロポロ涙が出てきました。
妹が一緒でなかったら上手に着付けてあげられなかったかもしれません。

一通り仕度が済み千葉さんが帰ってすぐ
葉に異変が起きていることに気付きました。
顔の色が変わってきているのです。
さっきまでただ眠っているようにきれいな顔だったのに。
急いで担当者に電話をかけます。
「戻ってきてください!」

葉の死因を話すと千葉さんは静かにおっしゃいました。
「内蔵を病まれている方の場合や
 点滴を長く受けていた方の場合は急変することがあります。」
「何とかならないんですか?」
「お身体はあとはもう腐ってしまうだけですから」
「え?腐るんですか?」
このときの私は気が狂う一歩手前だったかもしれません。
生き物は生涯を閉じれば朽ちていきます。
でもそれが葉におきているなど
このときでさえ私にはまだ理解できていなかったのです。

早く葉が変わらないうちに何とかしなくっちゃ!
私は半狂乱でした。
打合せのやり直しです。
想う会、お別れ会を前倒しにしてもらいました。
想う会の会場はもう埋まってしまって取れません。
急遽自宅でやることになりました。
お別れ会の会場は同じところが取れましたが
一足違いでお部屋がだいぶ小さいところになってしまいました。
仕方ありません。
葉はまだ2歳だし、それほど多くの参列者はいないかもしれません。

お顔の色の変化を隠すため
千葉さんにファンデーションを塗ってもらいます。
本当はそのようなことは彼の仕事ではなかったかもしれません。
でも黙って手伝って下さいました。

葉の身体からはドライアイスをすべて数センチ離しました。
少し和らげた部屋の冷房をまた強くします。

次に親戚や知り合いにスケジュールの変更の連絡を入れます。
ここにきて父親が電話口で無宗教で葬儀をやることに異議を唱え始めました。
必死で説得に回ります。
しかし、いいかげん私も精神のバランスがギリギリのところまできていました。
正直それらの細かいことなどどうでもいいと思っていました。
ここに元気な頃とは見る影もない葉がいるのです。
この子を楽にさせてあげたい。
きれいなままで送ってあげたい。
今考えると不思議ですが、
そのときもまだ私の中では葉は生きていたのです。
「まだ変化している途中」=「楽になっていない」だったのです。
ICUの中で過ごしている感覚とあまり変わりなかったのかもしれません。

父はまだ納得していません。
取りあえず翌日1番でこちらへ来ることになりました。
親の意見も尊重したいけれど
葉にとって1番いい選択をして進めたい。
では、何をどう決断したらいいのか、何が1番いいことなのか
頭が真っ白で何も考えられなくなっていました。
とうとう叫びとも嗚咽ともいえないような唸り声と共に
身体ごと部屋の隅に崩れていきました。
自分の意志とは関係なく涙が止まりません。
「ヨウヨ、よう、葉!」
一晩中ずっと葉の名前を呼んでそばを離れられませんでした。

10月2日
昨日飛行機で駆けつけてくれたお姉ちゃんの誕生日です。
葉をとっても可愛がってくれた麻貴お姉ちゃん。
私が葉のお嫁さんにしたかったくらい素敵なお嬢さんです。

そして
葉が生まれたときから
よく遊びに来てくれていたsolaお姉さんの結婚式の日。

いろんな人の忘れられない日でした。


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コメント 8

一年前の今日ですね。
by (2005-10-02 15:01) 

yulala

今日までの1年間、leafさん、dadaさん、それから親戚の方々が
どんなお気持ちで過ごしてこられたかを考えると、
心が苦しくなります。
ヨウヨくんのことを、読ませていただいてありがとうございました。
できればこれからも、元気だったヨウヨくんのお話を
たくさん聞かせて欲しいです。
by yulala (2005-10-02 15:25) 

すいすえみ〜

ずっと、読んでいたのに、コメント出来ませんでした。
こうしている今も、1年でもっとも辛い1日を過ごしているであろう、
leafさんに、どんな言葉を伝えたらいいのか、わかりません。
ヨウヨくん、小さな体で、とても頑張りましたね。
でも、私もまだヨウヨくんが苦しそうに、思えます。
by すいすえみ〜 (2005-10-02 18:59) 

mamaru

1日の24時間が2倍にも3倍にも感じられます。
私が産院で言われた言葉で、ありがたかったものの中に
「どんなときもママの決断が一番正しい」
というのがありました。
こどもを育てていく中で迷ったり、いろいろな人の助言に揺らいだりしたとき、どういう決断をしたとしても、ママが一番こどものためを思って決めることだから、それが正しいと信じて生きなさい、ということだと思いました。
leafさんの毎日を読んでいると、やっぱりママが一番正しいんだ、って思います。
by mamaru (2005-10-02 20:30) 

涙で画面が読めません。
一番辛いのはleafさん方ご家族なのに。すみません。
by (2005-10-02 21:11) 

U3

 葬儀は喪主になってやった経験の無いひとにはその大変さが分らない。ただでさえ精神的痛手を負っているのに、不眠不休で冷静に尚且つ迅速に漏れの無い様にすべてを手配しなければならないのだから・・・
 わたしは終わった後、半月ほどぼーっとしていました。(仕事はしていたけれど手につかなかったように思います)
by U3 (2005-10-02 22:14) 

ゆうゆう

私の祖父も「解剖を・・・」と言われました。もちろん断りました。
祖父の死因は「敗血症」でした。
夏に体調を崩し、検査入院ということだったのに、そのまま帰らぬ人となってしまいました。
私は祖父と一緒に暮らしていたわけではないので、あまりお見舞いへも行けませんでしたが、見る見るうちに小さくなっていく祖父の姿。
最後に見た祖父はとっても小さくなっていました。
「敗血症」でずっと熱でうなされ、原因の菌が特定されないので、抗生剤もあまり色々な種類を使えず。。。(耐性菌の問題で。)
祖父の心臓はとても強かったそうです。最後の最後まで。
最終的には腎機能が低下し、おしっこが出なくなり、尿毒症を併発し。。。。
そこからはあれよあれよと血圧が下がり。。。。
それでも祖父の心臓は最後の最後までがんばった。
神様の計らいか、父だけは祖父の最後の立ち会えたようです。
そこからは、おかしくなりそうな精神の中、葬儀屋さんとの連絡など、多忙でした。
お葬式が終わるまでは、身内は休む暇なんてありませんよね。
お葬式が終わって、やっと今まで起こったことを現実として受け止めなければならないんだ!!
という気持ちに立たされたのではないかと思います。
by ゆうゆう (2005-10-03 00:10) 

nako

★tanaka-ma3さん
お天気もまさに昨年の今日!って感じでした。

★yulalaさん
葬儀の話まではもうちょっとしんどい話が続くかもしれません。
でもその後は、また元気だったころの葉のお話を含めて
日々の想いを書かせて頂こうと思っています。
これからもどうぞよろしく。

★すいすえみ〜さん
こうしてコメントを入れて下さるだけで嬉しいです。
ありがとうございます。

★mamaruさん
「どんなときもママの決断が一番正しい」
これは小児科の先生方もおっしゃる言葉です。
どんなに専門的な知識のある小児科医よりも
いつも側にいる母親の勘「いつもと違う」
これが一番重要なのだとおっしゃっていました。

★qoooさん
読んでくださって
そしてコメントをくださって
本当にありがとうございます。

★ブラウンパパさん
おっしゃるとおりだと思います。
そのときはしっかりしているつもりなんですけど
思い返せば記憶が結構薄いことに気付きます。

★ゆうゆうさん
おじいさま、最後まで闘われた強い方だったんですね
愛する者とはいつまでも一緒にいたい。
単純にそう思います。
by nako (2005-10-03 00:23) 

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